P2S2R&B的勉強方法 ver2

理解とは何だろう?
[2005/03][2010/10]

勉強法について書いてある本は多いけど、「理解するとはどういうことか?」を掘り下げている本はあまり見たことが無い。それがずっと不満だった。だから、ver2では理解そのものについて考えた結果を書こうと思う。自分はずっと研究テーマが人工知能・AIだったから、ここら辺は外せない重要課題だった。(研究については個人コーナに書いたので詳細はパス)理解そのものについて分ってないのに、コンピュータに理解させる事は不可能だしね。だから、二十歳前後はよく考えてた。

理解に至る道は知性なのだが、理解そのものは《感性》だと思う

「分った」というのは一つの感覚的な事だと思う。美的感覚に近いんじゃないかな。美の感性が「調和と逸脱の間のバランス」とするならば、理解は機能美に近い。このインプット(目的でもいい)、このアウトプット(制約でもいい)で、必要となる構造のシンプルさ。その感覚はやっぱり機能美に一番近い。だから絵画とかじゃなく、インダストリアル・デザインだね。

よく、「《何を分ってないか》が分ったら、90%は理解できてる」というけど、90%の数字の部分は異論はあるが、これは正しいと思う。まず、「何を分ってないか」を考える習慣をつけた方がいい。って言うと、「全て」って答える人もいるけど、それは努力の放棄だよ。「愛してる」「どこを」「すべて」ぐらいは微笑ましいが、そういうカップルほど別れるもんだから。「何を分ってないか」が分って、それをちゃんとした人にちゃんと聞ければ、大体の事は分ると思う。ちゃんと説明できる人はそんなに多くないかもしれないが。。

本人の理解力と、相手に教える力が全く別なのは同意してもらえるかな?

もし理解が知性だけなら、この差は生じない。なのに説明が下手な人は学歴が高い人にも多い。記憶力と理解力は違うのに、頭の良さはこの両者を区別してない事が多い。「頭の良さが遺伝するか?」については、運動神経が遺伝するかと一緒だと思う。ある程度は遺伝する。けど、育った環境の方が大きいんじゃないかな。どんなに天才の子でも狼に育てられたら言語を喋ることは無いしね。それに人類は頭の中の構造が一番可逆性がある。「速筋と遅筋の割合は生まれた時に決まっていて、短距離や長距離はこの割合で得意不得意に分れる」って本を読んだ事がある。脳のシナプスの結合は二十歳まで変えれるんだっけ。

理解を感性とすると、余計に扱いにくくなるのは確か。けど、機能美と考えれば先が見えてくる。それと記憶力を同時に考えて、二十歳の頃に

理解の3段階という仮説を考えた。

Lv1:記憶
やっぱりレベル1は記憶でしょう。暗記と思って構いません。記憶力が高い人はいる。まれに本のページをそのまま記憶できる人がいるらしい。知り合いの知り合いにもいる。もちろんテストの点は高かったらしい。ただ、間違える時は変てこな答えを書いて、「あ、思い出すページが違ってた」みたいなるとか。普通は連想づけて覚えるんだけどね。


Lv2:今までの自分の知識体系に組み込まれる
これが普通の理解だと思う。そしてLv1とLv2の差を体感で分って、Lv2の状態じゃないと不快感を感じる。そこでどうしても考えちゃって自分なりの説明を見つける人が、頭のいい人だと思ってる。今までの自分の知識体系ってのは、一般生活をおくれる位の知識のレベルで構いません。「物は落下する」とか「男は女好き」とかなんでもいい。それと、新しい知識が組み合った時のぴったり感覚。それが「分った」という感覚だと思う。パズルの最後のピースがはまったような快感かな。 そして、この状態を目指す時に一番大事なことが、「周囲の要因と、本体の目的があれば、確かにこんな形になるよな」という納得だと思う。

空を飛びたいという欲求と、重力と、生物的構造から鳥の羽が生まれたように、そこには機能美があるんだよね。同じ欲求でも飛行機は生物学的構造じゃなくて機械的構造だから。羽を動かすというのは物理的に作ると金属の磨耗とかで大変なことになる。それより羽を固定した方がいいから。

だから、あるモノがあったら、「それによって何が出来るか? = それをしたいという欲求 = なぜそんなものができたのか」 「それを押しとどめようとする力 = 反発する周囲」みたいな内面と外面の力のぶつかり合いを知るのが大事です。そんな意味では、ある物事を理解しようと思ったら、その周囲に目を向ける必要がある。「こういうインプットから、こういうアウトプットを作ろうと思ったら、確かにこんな内部になるよな」っていう納得。それが一番大事です。


Lv3:他のモノを理解する基底となる
ずっとアメリカの人種問題についての本を読んでいても、いまいちアイリッシュ系の位置づけが分らなかった。以前に、副島氏の本に「アイリッシュ系というのは日本でいえば朝鮮系みたいなものだ」って書いてあって、その微妙な距離感が分った。そんな意味では、Lv3を簡単に言えば、喩えに使えるになる。「あれって○○みたいなもんだよ」「なるほどねー」っていう会話は○○をお互いがLv2まで知っていて初めて可能になるから。


これが理解の3段階説。
単純すぎる? うん、自分もそう思う。名前をつけるほどでもない。ポイントはそのモノが生まれた周囲の状況です。その中に入り込んで、「俺もこうするよなぁ」と思うのが一番大事。この「自分におきかえて、納得できる」というのがすなわち理解ジャン。それは感情・気分的なことでなく、理論的なことでも変わらないと思うよ。

そいえば以前、数学や物理の理論とか読んで挫折した時は、よくその学者の伝記を読みました。そうすると、その本人も同じ所で躓いていたりして、なんか親近感がわくから。

理解してるかどうかを測るのは難しい。テストはそれを測ろうとする試みだが、Lv1の記憶で切り抜けれる問題も多い。けど、本当に理解しているかは、喩えができるかどうかだと思う。喩えが上手い人が、自分にとっての頭のいい人かな。一番困るのは分った気になっている人。それを区別する一番簡単な方法は、分った事を誰かに説明することかな、やっぱり。



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