感動しても・・・
[2005/12/26]

なんか妙に若い頃から、感動について拘ってる。以前にこちらに書いたけど、ある作品によって感動しても朝が来たら同じ毎日が続く事が、凄くイヤだったから。けど、それがあるからこそ、落ち込んだ次の日も日常が続いていく訳で・・・そんな意味では、評価に困ってた。あそこでは

「作品に手を引っ張ってもらって、一瞬だけ階段を登れてる」
これ が感動の意味だと思った。だから、自力じゃないのだから冷めるのは当然なのだと。いつも誰かが引っ張ってくれる訳じゃないし、それをあてにして生きるなん て真っ平ごめんだもんね。常に引っ張って貰う事を考えてると、感動して冷めての繰り返しだと気付いた。だからこそ歩く必要があるのだと。同じだけの地点に 自力で上がる為に。努力というのは感動の次ぎに来るものであって、そこにしか意味は無い。


こう喝破したけれど、それだけじゃ足らなかったんだよね。今の自分を冷静に見詰めて、その一つずつが何によって生み出されたかを考えていくと、「その中のどれだけが感動のみで生み出されたのだろうか??」としばし疑問の淵に沈んでしまった。「感動するのはいい事だ」っていう言説が世に溢れているけれど、それを単純に肯定したくないんだよね。色々と考えて、とりあえず今の自分は

どれだけイイコトであっても、
最低でも半年間続かない事は、
人生でみれば誤差にすぎない


こう思ってます。たとえ感動したのだとしても、それによって何かしらの努力の決定をし、それが最低でも半年間続かないと、やっぱりその感動自体が無意味だったと思う。感動することについては、「感受性が豊かになる」とか、世には色んな言説が溢れているけど、それだけじゃ納得できないんだよね。感動だけすればいいってもんじゃない。

よく性格判断で「一番好きな食べ物を、食事の中のいつ食べますか?」とか項目があるけど、これ自体はあんまり気にしてない。そんなのはケースbyケースのどっちでもいいことだと思う。けど、「一つの作品を一気に観るのか/毎日少しずつ観る」のかには性格が出ると思ってる。で、俺っちはずっと前者だった。睡眠時間削っても一日で観ようとするんだよね。その方が感動が高まる気がしてて・・・

なんで今頃になって、この問題について考えたかっていうと、秋頃に「米ドラマ・24,season1」を遅らせばながら観たんだよね。それも一日でみようとして、さすがに途中5時間寝たので、27時間ほどで。「JoJoの奇妙な冒険」もそう。久々に同僚から借りたので、第一部からぶっ通しで読んでた。で、読み終えて、「作品に対するこの接し方は変わってないなぁ、、、」と結構、凹んでた。27にもなって今更感動して、人生の方向性を決める時期じゃないんだよね。そんなのは10代でやればいいのであって、10代の頃にそれが足らなかったから、今そうしなくちゃいけない訳でもないのに。。

日々のスケジュールを無視してまで、一気に観て、感動を高めて、それでどうするの??
今から刑事にでもなりたい訳でもないのだから、どれだけ感動したのだとしても、やっぱり年初に立てたスケジュールを毎日こなしていくだけなんだよね。それのみが将来を作るのであって、今の自分を振り返ってもそうなんだよね。どんだけの気分の日でもとりあえず、最低限やってた事によって、今の自分の場所がある。音楽を聴くことは当然その最低限に入っていたけど、とりあえず卒業・入学・入社できる程度にはやってた。そのままの大多数の流れで此処にいる。それは確かなんだ。

夏の宿題を毎日ちゃんとやる奴は、生理的に嫌いだった
と思ってる人は、そこそこいると思うけど(爆、やっぱり人生を作ってるのは、毎日グタグタ言わずに、どんな気分の時でもコンスタントにやってる事だけなんだと思う。何が気に食わないって、せっかく音楽絶ちして英語の勉強とか行ってるのに、「米ドラマは勉強に役立つはずだ」とか思って寝ずにみるそのアホさ加減。はぁ、ため息つくわ==


別に「二十歳を過ぎたら感動しても、もう遅い」とか言いたい訳じゃないです。ただ、「感動による方向性を決める時期」なのか、「ぐたぐた言わずにやるべきことを淡々とやる時期」なのか、その見極めだけはしなくちゃいけない。ずっとそこから逃げてた。ただ、色んな状況の中での最低限だけやってきた。確かにそんな結果になってる。
やっとこの歳になって気づきました。

上手く言えないけど、それだけです。

別にこのスタンスを押し付けるつもりも毛頭ない。ただ、今後はこの態度で日々を過ごしていきたいとだけ、思ってます。R&Bに関する感動の量だったら、負けない自信が、若い時ほどアホみたいにあったけど、、、

やるべきことをやる。空いた時間があったら、音楽を聴く。今後はそういうスタンスでw



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