MaryJ.Blige
"the Love I Never Had"
終わりに出来ない恋愛は・・・失われる
[2002/03/11]

色々寄り道をしてしたけれど、最終的にはこの結論になる気がする。もちろん歌詞を追っかけても答えはない。答えに辿りつく唯一の道はMaryJ.の歌いっぷりしかない。歌詞から見ると二人目の男性を仮定するのが自然なのだが、ここまで歌い込むMaryJ.は純粋にK-ciとの悲しみだけで歌っているように思える。このアルバムの点数をつける為にもう一度聴き直して・・・そう思った。多分、自分はかなりぶっ飛んだ聴き方をしているのだろう。最終的に、答えが無い問いかけを繰り返している気がする。そして、いつだってMaryJ.は予想以上の深みがある。彼女のフレーズには叩き込まれる何かがある。

MaryJ.は「終り」を受け入れるのが凄く辛い場所にいると思う。K-ciはあれだけやり直したがっているのだから。K-ciがFuu~と言うだけで、あれだけ怒りまくる位にK-ciの事を好きなのだから。

下手な喩えで良ければ、蛙の茹であげだと思うな。
熱い湯の中に蛙を入れれば、直ぐに逃げだす。けど、段々と湯の温度を上げていくと蛙は逃げるタイミングを失って、とうとうユデダコになってしまう。この喩えは不良債権についての話でもよく見かける。


この世で1番性質が悪いのは、見せかけだけの希望。
それ位なら完全な絶望の方がまし。そしてこの歌を歌うMaryJ.はまさしくこの状態だったと思う。誰がどう見てもK-ciはやり直したがっていて、それはやっぱり見せかけだけの希望なのだと。完全な絶望を体験したMaryJ.だからこそ、このいかがわしさに気付いたんじゃないかな・・・


この愛を失いたくないから、だからこそ終りにしなくちゃいけない
この想いを伝えてると今の自分は思う。終りに出来ない恋愛は少しずつ形が崩れていくのだろう。そして、最後は恋愛と呼べないものに成り果てるのだろう。確かにお互い非難ばっかりのNot Lookin'を聴くと、恋愛といっていいギリギリの地点だと思うから。

絶望のどん底で固める覚悟よりも、見せかけだけの希望の中で固める覚悟の方が偉大だと思う。絶望のどん底なら、「中毒・自殺」にさえ逃げなければ開き直れるから。見せかけの希望ならば、まずそれが見せかけだけだと認識しなくちゃいけない。自分も色々見てきた。家に引きこもるなんて見せかけの希望なのだと、そう伝えたかった。けど、それは彼を絶望のどん底に突き落とす事だったし、さすがに自分はそれを言えなかった。ここら辺は・・・未だ結論が出てない。

けど、その自分も、今持っている最後の余地が見せかけの希望かどうか判別出来ない。これは一体どうやるのだろう? 本当に分らない。MaryJ.はどうやって判断したのだろう・・・

ただ、この歌に込められた「終りに出来ない恋愛は失われる」という意味なら痛い程良く分る。確かに、これはこの世の摂理なのだろう。確かにこのラインを踏み超えようとするならば、あれだけK-ciがやり直したがっているのだからこそ、MaryJ.はここまで歌い込む必要があると思う。

この歌には、新しい男の影も形も無いと、、、今は思う。純粋に一つを突き詰めている。気付いて見れば、このフェーズ自体はマクナイトの処女作と同じだね。けど、メッセージの重さは格違い。

これがSoulの女王か

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