God:Lord
  1. どんなアーティストのどんな作品であっても、Lordだけは素直に分る。それはものすごく大切な事だと思う
  2. 突き詰めれば、1番神に見守られてるのがアフリカン・アメリカンだと思うから
[2001/10]

確かにアメリカという国自体、信仰のウエイトが高いと思う。それは建国談からも一目瞭然だし、ヨーロッパの国々は聖職者と付き合い長いからなぁ、、「あんなに威張っている坊さんも女郎小屋に通ってる」ってのをずっと目撃してきた訳だからw だから、宗教との距離感は程々という気もするしね。その点で、やっぱりアメリカはちょっと違うのだろう。ファンダメンタリストや集団自殺とかの話しも聞くしね。

そんなアメリカのアーティストだけど、聴き始めの頃から、やっぱりR&Bはもう一段階違うと思ってた。だってロックの最後にこんなテイストの曲なんか無いでしょう。彼らは恥ずかしがると思っちゃう。けど、R&Bは違うんだよなぁ、、それが中学の頃に新鮮だった。けど、接するアルバムの枚数が多くなるに連れて、自分の中でもう少し見えてきたと思う。その時感じたのが、1.だった

やっぱり、周囲をみも知らぬ人に囲まれて一人ぼっちならば「けど、みんな神を信じている」というのは、信頼感の最後の拠り所になるのかも、、とは思った。日本に住んでりゃ「みんな日本人だし、そんな事したら、村八分」って思えるから、そんな意味での神はいらないとも思うけど。

「神がいないならば作ればいい」
誰が言ったのかは忘れましたが、昔のイギリスの皮肉屋さんだったと思う。で、実際、この言葉が自分の実感に近い。「神という概念は強力で、有用も悪用も出来るのだから、使わない手はない」って所。斜に構えると、やっぱりこれが結論かなぁ。

ってもちろん、自分としても「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」だと思う。だから、その点でも、ごくごく普通。「大河の一滴」はロング・セラーだしね。もちろん正月もクリスマスも全然ありだと思う。「今日は向うの山が霞んでみえるなぁ」ってな自然に囲まれてれば、人類史的にこうなるでしょう。実際、一神教は砂漠で生まれると思うしね。そんな点では、アフリカ大陸の黒人達もずっと「躍動感のある多神教」だったんじゃないかな?とは思う。日本はやっぱり「湿度のある多神教」でしょう。黒人の神様は太鼓叩いて裸踊りしてそうだが(かなり適当)、日本の神様は靄や霧の中に隠れてそうだもんな(ちょっと適当)

「多神教と一神教がぶつかれば、一神教の方が強い」というのはもう公理だと思う。満たされていれば、多神教でもやってける。けど、状況が酷くなれば酷くなる程、一神教に近づいていくんじゃないかな。それを逆に取れば、「一神教を信じる方が、打たれ強い」となるだろうし。殆ど攻められた事の無い日本人がずっと多神教なのも、当然だと思うし。
だからこそ、

アメリカ大陸に無理やり連れてこられた黒人達は、彼らの素朴な神を変える必要にどうしても迫られた
そこで彼らのした選択が、未だ自分は信じらないんだよなぁ、、、、


「ユダヤ人とは誰か」 アーサー・ケストラー著 三校社
もう数年前だけど、大学の図書館で何気なく見つけて読んだこの本の衝撃は今でも覚えている。混乱しているパレスチナ問題にこれほどの闇があるとは始めて知った。「昔、黒海沿岸に覇をとなえたカザール王国は 右からキリスト教国家群、下からイスラム教国家の圧迫を受けていた。だから、彼らは国家として民族としての独立を選ぶ為に、二つの宗教の公約数として、ユダヤ教を選んだ。今のユダヤ人の大半はこのカザールの末裔である」という内容だった。ユダヤ問題自体は、日本でも陰謀論の本があるくらいだけど、ここまでの話とは思わなかった。
ってもちろん、自分はこれについて簡単なコメントは出来ないけれど、政治力学的信仰理由というのは正当に存在すると思う。

一体どこのアホが敵の宗教信じるんだよ
だからこそ、アフリカン・アメリカンがキリスト教を信じる事は、ものすごく深く、そして大切な意味があると思う。もし自分だったら、しょーもない頭をこねくり回して、余計に神から遠ざかると思うから。信仰の強制が1番不可能というのは、隠れキリシタンをみれば一目瞭然の世界。だからこそ、どんな経緯があったのかは未だ知らないが、彼ら自身の選択なのだろう。だからこそやっぱり自分は、1番神に祝福されるのはアフリカン・アメリカンだと思う。もし、真に祈るべき神がいるのだとしたら、その方はアフリカン・アメリカンを見守ると思う。


何故、連れてこられた自分達だけの神を考えなかったのだろう・・・
いつも思う。「エジプトに強制的に連れてこられた事と、その頃のエジプトのアモン信仰?が混ざり合って、人類初の一神教であるユダヤ教が生まれた」ってどっかので本で読んだ。だろうなぁ、、って思う。そんな状況になったら、「自分達だけを見守ってくれる神がいる」と思う以外に何も残されて無いじゃん。これと照らし合わせても、やっぱりあの時のアフリカン・アメリカンの選択は驚愕してしまう。


彼らが選んだ事は聖歌を自身でアレンジしていく事

鈴木啓志氏の本にあった。それがゴスペルの発祥だと。今、思う。やっぱりそれがアフリカン・アメリカン達が持つ核なのだと。結局、あの頃の自分は、そこに1番惹かれたのだと。それを伝えてくれたのが自分にとってのR&Bなのだと。Shaiの"Lord I've Come"は本当に大切な何かを伝えてると感じてたから。周囲を見ても、「三度の飯よりR&Bが好き」って言う人は、やっぱり最終的に此処に根ざしているような気もする。


以前のbmrでブラック・パンサーについての連載があった。ってもちろん自分は音楽友達でもあるナッツからバックナンバーを見せてもらって知ったのだけど。マルコムXが最終的にイスラム教に辿り着いた事、モハメド・アリがイスラム教を信じている事、ネイション・イスラムの話。これらの事について、もちろん自分はとやかく思わない。ただ、神という概念は政治的に使うものじゃないと思う。一神教同士がぶつかったら殺戮しか生まないというのは、日本人の総意だと思う。

けど、その言葉は世界に対して説得力はない。自分達の中だけで完結してる。それはやっぱり日本の非核と同じだと思う。日本人は、民族としてどん底を経験してないのだから。たまに、「日本の持つ宗教的寛容性が今後の人類に役立つだろう」というフレーズを見る。もちろん自分も、いい加減に複数の一神教の存在と対立をこのまま認めていくのか、、とは思う。けど、本当の所で、駄目だと思う。


同じ寛容性というなら、アフリカン・アメリカンの方が遥かに深い
こう思うから。「恵まれた民族の戯言に耳を向ける程、世界は暇じゃない」のがリアルな現実だから。それは核実験にしても。皆は言葉の壁という。けど本質はやっぱり違うと思う。自分は言葉を分らずともR&Bに惹かれた。今、世界で、言葉が分らずとも日本の歌に惹かれる子供がどれだけいるのだろう・・・自分はずっとアホだった。だからこそR&Bには色々教えられたから。気持ちを汲んでくれるというならば、そりゃ邦楽の方がいいのは当たり前。だって歌詞が分かり易いもんね。けど、あの頃、「先を示してくれる」と感じなかった。不幸な出会いかも知れない。それはそう思う。

けど日本の音楽が島国を出るためには、実は日本人全体としてやらなくては行けない事が山の様に残っていると思う。戦争が終わってもう50年を過ぎたけど、見て無い事が多すぎるなぁ、、そろそろ僕らの世代なんだよね。親の世代が食事に困らない国にしてくれた今としては、経済が続くよりも、日本の歌が世界中に聴かれるような国になって欲しいと思う。ずっとR&Bを聴いてきたけど、もちろん嫌いな訳じゃないのだから。やっぱり生まれた国の音楽を嫌いな奴は、本当の所で信用できないと思うしさ。


たった二十数年の割には随分とアホで頑固になったなぁ、とは思う。けどその分だけ、得るべきものを得てきた実感はある。それはやっぱりR&Bが魅力的だったから。あの頃の、本人も良く分らない直観?で選んだ割には、ホント幸運な出会いだった。今、思う。日本の漫画とアニメは、本質として何を伝えているのだろう?他国にディズニー以上、大人未満の絵的本の市場が無かった事なのだろうか? ちゃんと世界の子供に、それだけのものを伝えれているのだろうか?


本当に壱を突き詰めれば多に繋がる事が出来る
今の自分が、信じているのはやっぱりこの言葉。そこそこ器用?だったのだろう自分は、おばあちゃんに「器用貧乏にだけはなるな」と昔言われた。忠告以上にR&Bに費やしてきた今までだったなぁ、、とは思う。三度の飯よりR&Bだもんなぁ、、ホント。いつか、R&Bを分ったと言える日が来るならば、他の音楽も聴こうかなァ、、とは思う今日この頃です。

この前のカラオケで、モーニング娘のあの曲を聴いた。「日本の未来は、、」というフレーズは素直に聴いて良かった。けど、恋愛は二人の間の話しじゃん。「日本の未来はガンガン恋愛して、ガンガン歌って、世界にその歌を届けよう」と言ってくれるなら、ファンになっちゃうぞw
   
日本人はそういう不幸に会ってないから、日本教徒などという自覚は全く持ってないし、日本教などという自覚は全く持ってないし、日本教なっどという宗教が存在するとも思ってない。その必要がないからである。しかし、日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でも最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮き彫りにしてくれるのが「日本キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。

 宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもなしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐに染まるはずである。だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の『ヨハネ福音書』と『ロマ書』はお読みなさい、そしてそれがすんだから日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて『創世記』と『第二イザヤ』ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いて言う。そんな本がありますか、と。ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか? あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付きになってくる。そこで私はいう。いや何のご心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々・・・」 何十年かたったら思い出してください。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したのであって、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。

 私は冗談を言っているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念でなく、「人間」という概念なのだ。
《中略》
 漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までも自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対称的である。

「日本人とユダヤ人」 イザヤ・ベンサン 角川文庫

[2003/08/09]

そういえばこの本は高校以上では夏の必須読書にいつも挙げられていたなぁ。けど、あまり信じてなかった。いつの時代も日本人論が溢れているが、日本人が書いても外人が書いても、酷くケナスか酷く誉めるかだから。ところが、この前、引越しを手伝ってたら本棚にあったので貰ってきました。ついでに「旧約聖書入門」三浦綾子・光文社も貰ってきた。やっぱりそろそろそこら辺にも焦点を合わせて行く時期だと思って。この本は数回読み直す程に面白かったです。その中でも特に伝わる部分をピックアップしてみました。

日本教と言われるとピンとこないが、「人間味」というのは凄く同意する。「実るほどに首を垂れる稲穂かな」が竹下元首相の座右の銘らしいが、確かに納得するからなぁ。けど、どうせなら「若い時は無茶をやれ」ぐらい追加すればイイのにネ。で、それなりの場所を提供する。それは政治の大きな責務だと思う。若い頃にちゃんとバカをやらないから、歳をとってからやってみっともなくなる。90年代の官僚汚職も「ノーパンしゃぶしゃぶ」とか世界中にアホさを振りまいていた。若い頃に勉強を選んだくせに、歳をとってから他も欲しがるからだよ。アホ男は好きですが、こういうのは腐ったアホだと思ってます。選択できた話は全部本人の責任だろ、全く。ホントのイイ男は全てを等価に背負える男だけど、その姿には未だにため息つくほど遠いです、、、

結局、R&B-Soulに惹かれている理由は、突き詰めれば彼らの神概念ではない。それが最後の支えになっているのは痛いほど分かるけど、最終的には彼らの人間味なんだよね。ぶっとんだことが起こったら、どうしても人生はズレていくし、上手く世とは合わなくなる。その一つ一つに喜怒哀楽しながらも歩いているその姿が一番スキ。世の中には正しい言葉は溢れてる。けど、それを聞いて守れるなら、もっとこの世はマシになってるよ。 けど、彼らの歌を聴けば少しだけマシになれると思うから。

ちなみに「旧約聖書入門」も面白かったです。ずっと今まで禁断の実を食べたからエデンの園から追い出されたと思ってた。食べちゃいけない実を近くに置いておくなんて、神様も罪なことをするって思っていたけど、実は違ったのネ。蛇のせいにする、その言い訳が激怒をかったということか、、、ちょっと納得。黒人達が信じているのはキリスト教であっても、旧約聖書って読んでるのかな??そこら辺の宗派の系統関係は分からないから、いつかイイ本に巡り合いたいです。

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