Artist & Critic
[2005/12/17]

日本の批評家としては小林秀雄がTOPに来るのは、なんとなく大学生の頃から知ってた。彼が批評という行為についてどう考えていたのか、ずっと知りたいと思ってたけど、そんな本と出合うこともなく、8年以上経ってしまったです。だから、この前、江藤淳の「小林秀雄」を読んだけど、さっぱりだった。もうちょっと「批評家になるには何が必要か?」を理論的に掘り下げているかと思ったけど、違うもんなぁ。。人は批評家となるために生きない。が、生きるために、和解する事のできぬ秩序のなかに自分の席を主張するために、批評家とならねばならぬことがある。このことはきわめて徐々にしか意識されない。そこにいたるまでにはいくたびかの逡巡があり、自分についての幻影があり、ほとんど生理的な焦燥のくりかえしがある。この混沌、未分化の状態のなかに、すでに人を批評家にするものの萌芽があるにちがいない。

この言葉は完全に正しいと思う。小学生の夢コーナーに「批評家」と書く人なんていないでしょう。徐々にしか意識されないというのも正しいね。ただ、小林秀雄の萌芽を追っかけた文章は、中原中也とか志賀直哉とか夏目漱石とか、ある程度の文学的教養を必要としてる。それが無い身分で読んでも良く分らなかったです。

そもそも自己規定として批評家でもないしね。それは職業としてない面もあるけど、作家・歌手に対しての客観的な距離をとろうと思ってないから。どちらかというと、「誰も分かってくれなくても俺は歌わなくちゃいけないんだ」っていう曲に対して補足をしてる。それは客観的な感覚でなく、自分が聴かなくちゃいけない立場にいるからで。それを批評と言っていいのかよく分らない。

ただ、社会人になる前の最後の最後にHPを作り始めたのは、作るのがイヤだったから。作ったら形になるとは二十歳の頃には思ってたけど、やっぱり俺も表現者の側に行きたかったんだよね。それが全部無理というのが分ったからであって、そういう意味では幻想と焦燥と言われたらその通りかもね。。

そもそも、「批評家になるために何が必要か?」の前に、「アーティストになるには何が必要か?」の方が先でしょう。で、この答えはなんなのだろう? 根源的な問いのハズなのに、ちゃんとした答えは見た事ない気がする。生まれつきで誤魔化す部分が多すぎる。けどね、例えば、目の前に二流の人がいて、彼は一流になりたいとする。テクニカルな面は身につけてる。けど、一流になるには何かが足らない。そういう人の中でも化ける人とそのままな人がいるわけで。その違いは何なのだろう?



この前、何かの雑誌で面白い記事をみつけた。
著者は診療所をやっているらしいのだが、そこに美人な女性が事務としてアルバイトに来たとのこと。彼女は福岡出身で女優になるために上京し、事務所に所属しながらバイトとして病院事務を選らんだ。彼女は物覚えもよく、事務の仕事も普通の何倍も早くマスターして、著者がうちで働く時間を増やして欲しいと頼む位だった。けど、ある時期から見るからに彼女に元気が無くなって、今まででは考えられないような凡ミスをするようになった。拒食症のような状態になり、精神的にもかなり参っている雰囲気で。だから著者が彼女と面談したら、事務所の社長から「売り出すためにもっと金を入れろ」とせびられているという話だった。

なんでもその事務所に親が資産家の女性もいて、その人と比べられながら、ネチネチいわれるらしい。もちろん彼女は単身上京した身分で、そんなお金がある訳もなく、悩んでいるという話だった。それを聞いて著者は「君は綺麗だが、女優のオーラがない。その事務所はやめた方がいい」とアドバイスした。
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まもなくして彼女は診療所を辞めた。数年後に彼女から手紙がきた。「女優のオーラが無いと言われた時は凄くショックで、それもあって診療所も辞めましたが、やっぱり自分でも薄々気づいてました。だから今は故郷に帰って全く違う職業につき、今度結婚します。あの時はハッキリ言っていただきありがとうございました」と文面から幸せが漂ってくる内容で。


うろ覚えだけど本筋は抑えてると思う。これ読んで、ありそうな話だよなぁ、、と思ってた。それにしても「女優のオーラ」ってのは分るような分らないような。。これを生まれつきとしていいのかな? そこに疑問が大なワケですね。

以前にアーティストが抱えるDeepさについて書いたけど、別にDeepが必要条件とは思ってない。Deepがあれば光と影の両方が濃くなると思うけど、やっぱり必須ではないでしょう。ずっとそれ以上は良く分らなかったけど、ここ数日間、Raul Midonを聴いてやっと新しい観点が見つかった。

自己へのコントロール権
とりあえず、いい言葉が無いので、「コントロール権」と適当に命名したが、今はアーティストになるにはこのコントロールへの距離感が大事だと思ってる。

どれだけを自分自身でコントロールできるか?
これが100%でもアーティストになれないし、0%でもやっぱりダメ。そもそも100%で当然ジャンと思ってる人はどれだけR&Bが好きでもこのHPとは背反だね。だから自己の何に対してコントロール権を手放すかが大事になるんじゃないかな。やっぱりRaul Midonは視覚でしょう。眼が見えないなら、視覚へのコントロール権がゼロだと記述できる。そのコントロール権に関する葛藤がアーティストとしての背骨になる。そういう意味では生まれた境遇もそうだね。ある程度の歳までは育つ環境についてコントロール権が限りなく少ないのだから、その境遇が葛藤になる人ならばやっぱりアーティストとしての背骨になると思う。そんな意味ではDeep性も包含できる概念だと今は思ってます。

「このまま行ったら、100%自分はヤバクなる」っていう地点をビヨンセはdengerously in loveで歌っているけど、そういう地点も同じだね。それが自己に対するコントロール権を手放さなくちゃいけない瞬間。そこで手放せない人は、どれだけ正統な理由を挙げても、どれだけ周囲の多数意見を挙げても、やっぱりアーティスト側には絶対にこれないと思う。

コントロール権を手放す事だけが、大事という訳ではありません。ある程度までの歳ならば「生まれた時からコントロール権が無かった」で押し切れるかもしれないけど、一生そんな事ほざいてるのは単なるアホです。コントロール権を持つというより、簡単に言えば責任感を感じるかどうか? 責任感のない奴に歌は生まれないからなぁ。

誰もが自分自身が一番可愛い。それがねじれて自分を自分で傷つける人もいるけど、それは理想と現実のギャップの差を受け入れられないからであって、通常よりも自己愛は強いと思う。コントロール権を手放せる人はそこが違う。けど、手放し方にも色々あると思うんだよね。完全に相手のいう事聞くのは帰依と変わらないからなぁ。人間関係の中でやる話じゃない。一番手放して意味があるのは、自分の意見が跳ね返ってた形が、半分心から納得できて、半分絶対納得できない時かな。。
もちろんいい形で手放せばそれだけOKというわけじゃない。

手放した状況の中で新たな何かを見つけれるか?
結局、アルバムを積み重ねていくというのは、根本的にはこの作業だと思ってる。もちろん全てが達成しているわけじゃなく、いつだってもがいているんだけどね。けど、手放さなくちゃいけない状況になったとき、そこで《遠くの笑顔》が出た人は、途中でどれだけあっても、最終的には新たな道を見つけれると思う。結局、表情を観るというのは《近くの笑顔》と《遠くの笑顔》の区別がつくかどうかであって、それが本HPの表情学の支柱の一本になる。もちろん遠近は距離じゃない、時間軸です。

何も手につかない時がある

そんな状態が多い人はやっぱり自分自身に対するコントロール権が弱いのだろう。学生の頃はよくそんな状態になってたけど、何も手がつかない時が自己の未来を作ってくれる時期が終わった事を、社会人になって痛感してる。昔は日々のスケジュールを立てても、とことん破ってたからなぁ。けど、今何かしようと思ったら、一日の中のわずかな時間を集めて、コンスタントに1歩1歩やっていかないと何も始まらない。

アーティストだってそう。ボイス・コントロールでも作曲でも楽器演奏でもそうだけど、通常レベルのスキルを身につけるのは必須であって、そこでグタグタ言っても一生アホなままなんだよね。そんな意味では、自分の中の何をコントロールしようとしていて、何をDeコントロールしているのかについては意識的になった方がいいのかもしれない。自分の中の全部をコントロールしようとする事は、結局、相手をコントロールすることになると思うから。

ということで、Raul Midonを聴いて、「Deep & 身体的障害」という今までの観点を「自己へのコントロール権と葛藤」という観点で一段階UPできた。とりあえず、ペースは落ちたが、まだ新しく進むことが出来ると分って、結構嬉しかったです。ちゃんちゃん。

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しまった、批評家について何も書いてないぞ(笑

うーんと、コントロール権という観点で言えば、批評家素質がある人は、コントロール権を失った状態を冷静に観れるんだと思う。アーティストは没頭&表現できるんじゃないかな。どちらにしても、正しい理由を持ち出して、手放す時期に手放せない人は無理だと思う。けど、それはそれで一つの正しい生き方だと思うんだよね。社会を作っているのはそちらの発想だし、大多数の人は選べないと思うから。理想は最初から固執せずに、いい形で手放す事と新たに見つける事を繰り返せる人だけど、そんな器用なことは大多数の人は出来ない。結局、みんながほどほどで済ませなくちゃいけない。その為に作品が必要になる。極論から言えば、それが社会とアーティストと作品と批評を捉える一番大きな枠組みのような気がした今日この頃。

補足をすれば、歌手であっても自己の事は完全には分ってない。そこを、他者という客観と、コントロール権を手放す感覚が分る近接性から捉えるのが、本HPにとっての理想かな。

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うーん、一度読み返して気づいた。「コントロール権が無い」ってのは、「自分自身じゃどうしようもない点が自分の中にある」と同義じゃん。なら、以前に書いてる。そんな意味では根源的には増えてない気もしてきた。。凹むわ==。R&Bだけは天井感と無縁だと信じてたのにな。最近、何を書いても天井感です。。



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