《Inner Mind−アーティストの核を探して》
[2005/09/10]

実際、村上春樹もいろいろな人から、「ランニングなどしていたら小説など書けなくなる」と言われたそうである。「小説というのは、不健康なところからでてくるもんだって、耳だこになっちゃうくらいに聞かされた。でもそんなの冗談じゃないと僕は思う。それとはまったく逆に、体を健康にすればするほど、自分自身の中にある不健康なものが、上手く出てくるんだと、僕は信じている。あるいは不健康な精神を抽出するためには、体は健康じゃなくちゃいけない、と。小説というものは不健康なものじゃないかと言われれば、確かにそのとおりだと思う。その不健康なものを出してこないと、つまり毒がないと小説にはならないわけじゃない? でもね、それを取り出してくるためには、体そのものは健康じゃなくちゃいけんないんだよ。そうじゃないと、「毒なるもの」を支えきれないんだ。あるいは自分の中にある獣をおびき出す、と言ってもいいかもしれない。それにはもちろん体力が必要だ。そうじゃないと自分が獣に食べられちゃう」
<中略>
もちろんランボーとか太宰とか芥川とか、ああいう人たちはそういう毒みたいなものを日常として全面的に抱えていきていた。それは一つの生き方だ。僕はそれは否定しないよ。でもね、そういうのって、長くは続かないんだ。どこかで必ず飽和点に達してしまう。それはそれで文学的にはまことに美しい生き方というべきなんだろうけど、僕は別に早死にする気も、自殺するつもりもないし、そういうタイプでもない。善くも悪くも長距離ランナーなんだからさ。


齋藤孝著「できる人はどこがちがうのか」にあるこの議論は非常に面白い。かつ突き詰めるべき内容だ。小説を書くのに毒が必要というのならば、歌手には必要なのだろうか?俺はそれが凄く知りたい。それは芸術として一くくりにできるものなのか?だから、とりあえず現時点のものを書くことにした。



現時点では歌手にも必要なのだと思う。村上春樹は毒とか獣とか表現しているが、本HPでDeepと表現してるモノに対応してるかな。DeepさではTOPクラスのMarvin Gayeだけど、彼の伝記を読んでてその最後の描写にびっくりした。なんでもお母さんを挟んでMavrinと父親が一触即発の状態で、どちらがどちらを殺してもおかしくなかった状態だったと。英語の本を読んでも1/10も分らないのにそれでも激Deepなのが伝わってきたから。
あの本を読んだ結論として、

父親に殺された時、「自分が父親を殺す形じゃなくて良かった」って心に浮かんだのかな

なんとなくふっとそう感じたんだよね。本にそんな描写は無かったと思うけど、なんとなく。そんな意味ではMarvinは心の奥に闇を抱えていたし、それがいい面でも悪い面でも彼の人生を作ってる。それを昇華した曲は確かに誰にも負けない傑作曲になるのだから、芸術家は毒を持っている必要があるのかもしれない。Rayを見てても思った。2番目の奥さんが怒った時にその感情をすかさず新しい曲に昇華してた。怒ってた女性もその生まれたての曲をどうしても歌ってしまっていた。こういう感情の嵐の中から作品を生み出すのが芸術家の特権なのかもしれない。Sam CookeもMarvin GayeもDonny Hathawayもどうしようもなくミュージシャンとして美しい生き方だとは思う。けど、同時にIsleyやO'Jaysの円熟期の作品も好きなんだよね。だから、かなり僕は混乱してる。

何よりもやっぱりDonnyのWe'reStill Friendsが。この曲は今まで聴いてきた全ての曲の中で一番怖い。一番闇が見える。啓志さんがDonnyやStevieを好きになれないと思ってる態度は納得してる。別に全員の事を好きになる必要は無いと思うから。けど、ここら辺の啓志さんがパスしてる歌手についてガツンと書いてる本は読みたいんだよね。そして、はっきり言って欲しい。

歌手の中でどの曲が一番Deepか
その奥に何があるのか
それは歌手本人を描く上で必須なのか
すなわち歌手としてDeepさはどれだけ必要なのか


この点について突き詰め結論を出すために歩いていきたい。それがSoulを続ける一助になると思うから。その点で言うと
Marvinは"Anna's Song"
Donnyは"We're Still Friends"
Samは"Nobady Konw the Touble I've Seen"
Curtisは"Right On the Darkness"
Stevieは"All in Love is Fair"
これが現時点でのP2S2R&Bが提出するコアの曲のリストです。ただ、CurtisとSamはそこまで言い切れないなぁ。

その中でもWe're Still Friendsが一番怖い。Anna's Songは救いを求めてる。どれだけ底にいようと、救いを求めている曲なら最終的にはその救いに完全に心を重ねれば聴き抜くことはできる。けど、この曲は救いを求めてないと思う。そもそもその前のLittle Getto Boyから結構くる。少年時代に万引きを重ねたことがある人にしか、真にこの曲の優しさは届かないだろうと思っているのは事実。そんな意味ではこういうDeepな曲を聴くには1/10でもリスナー側に同じものを抱えている必要があると思ってて、そうじゃない人が聴くには数年は必要だと思ってる。けど、その道の方が最終的に得るものは大きいと思ってるんだよね。そんな道は確かに憧れるけど、自分には縁が無いな。一つ一つは歌手に比べたら1/10程度なのに、こうも重なる自分自身のことは、本当のことを言うとイヤになってる面はある。けど、村上春樹が走ってるように、二十歳の頃に稽古をしながら鍛えてたのは事実。古武術がなかったらやっぱりこのレベルまで聴き込めなかったから。そんな意味ではある線以上の曲をある線以上に聴こうと思ったら、音楽以外の何か、特に体を鍛える系のことを支えに持ってくる必要があると思ってる。

ネルソンジョージの「リズム&ブルースの死」がどれだけの評価を受けているのか分らない。ネットでひょんなことから見つけて迷わず買った。けど、読んでみてこの本の深さを思う。同じ黒人じゃないと書けないモノが書いてある。それが何なのかまだコアの言葉を見つけれてないから、読書コーナにとりあげてないのだけど。
3巨人のサムクックとジェームス・ブラウンとジャッキー・ウィルソンだけど、今から見るとジャッキー・ウィルソンの凄さがよく分らない。前の二人の名前はいたるところで耳にするのにね。けど、モータウンの始まりに関わり、Marvinは一番ジャッキーのことを目標にしてたとか伝記に書いてあったけ。

ウィルソンがR&B最大の悲劇の一つとされるのは、彼の底知れぬ才能が満足に開花せずに終わったからではないだろうか。ライブ・パフォーマーとして、そのすさまじい躍動感という点でウィルソンに匹敵するのは、同じボクサー出身のジェイムス・ブラウンだけだろう。しかし、ブラウンがヘビー級にふさわしい頑固なまでの意志の強さ ―左フックとぐっと前に突き出した太腿― を特徴としていたのにたいし、ウィルソンはパンチが来ればすぐさま打ち返す、おそろしくすばしっこいミドル級、前例のない優雅さあふれるエンターテイナーという感じだった。台の上からステージに飛び降りて爪先と膝を使って着地し、すぐさま立ち上がり、しかも一音たりともミスすることがなかった。

この文章があったからだね。だからネルソンジョージを全面的に信じる気持ちになった。最初の一文を疑問形で書いているけど、本人は答えとあるべき姿が見えている。そういう雰囲気が漂う本なんだ。なんというかな個別の歌手についてとか、曲についての批評というよりも、ネルソンジョージの書く文章は歴史であり、彼はブラックミュージックにおける正統な歴史家の気がする。

ハサウエイのExtensions of a Man、そしてロバータ・フラックとのデュエット、You've Got a Friend" "Where Is the Love"の共同プロデューサで、アレンジャーでもあったマーディンは、同世代のスティービーワンダーと並んで、ハサウェイはR&Bのハーモニーの領域を広げたパイオニアだったと考えている。 <中略> ゴスペルとジャズと社会意識を一体化させたハサウェイについて、「黒人の世界の真のヒーローになれたはずだ。音楽的なヒーローというだけじゃなく、社会的に重要な人物にだってなれたはず」とマーディンは言う。不幸な事に、時代を先取りしてたその才能にもかかわらず、彼は精神的に深い傷を持っていたためレコードづくりもままならず、79年、ついには自らの命を絶ってしまう。

間違いなく、自殺した理由をネルソンジョージは知ってるね。この文章は知ってないと書けない種類の文章だと思う。それがどうしてもこの曲と結びついている気がして。StevieとMarvinは書ききった。Curtisの曲は未だ全部は分らない。Curtisの伝記には奥さんと二回ほど?離婚したことが書いてあったけど、あまりそこにウエイトを置いてなかったので、Curtis自身の恋愛の形は知らない。Samと一緒で自分自身の恋愛について余り歌わないタイプの気もする。けど、Right On the Darknessは誰かのために歌っていそうで、自分自身のために歌っていると、なんとなく思う。それがEddie You Should Know Betterとか他のDeepな曲との違いだと思ってる。

自殺にせよ他殺にせよ、《死ぬ人》がいて、その一方で《生き残る人》がいる。生き残る人は村上春樹のような考えをもって人生を歩き、生き残るべくして生き残ったのか、それともこの分水嶺は神の気まぐれなのか、それが未だによく分ってない。それとも生まれた時に決まってる位のことなんだろうか。

リスナー側にとってもそう。最終的な点で自分がどっちに属しているのかも分らない。二十歳の頃は確実に短距離ランナーだと思ってた。けど、今は一応なりに社会人として続いてる。会社を辞めなくちゃいけないような時期もあったけど、今は4年目で安定期だ。ここまで上手く自身を変えていけるとは、本人も思ってなかった。

毎晩R&B-Timeで突き詰め、おびき出してた自身のDeepさはどこに行ったのだろう? 俺は村上春樹のように長距離ランナーになれるのだろうか。なる方がいいのか?そんなこともよく分ってない。だから、ここら辺の曲を聴き抜くことで知りたいんだよね。そんな意味では根源的な所では、とことん自分自身のために聴いてる。それはここで言明しておきます。隠す話じゃないと思うから。これが明確に分ればもっとDeepなリスナーが《破綻しない道》を選ぶ手助けになると思う。全員のためになる話じゃないけど、救われない人を手助けしてこそ意味があると思うから。生き残ってる大御所たちはやっぱりそう思ってるのかな。

とりあえず、今はこれで全部書いたです。


ちなみにその本は結構面白いよ。

「あこがれにあこがれる」 という章では棟方志功について引用してる。
わたしは何としてもゴッホになりたいと夢見ました。プルシャンブルーで描かれたゴッホのひまわり、グルグルして目の廻るような、輝き続く、あんなひまわりの絵が描きたかったのです。わたくしは描きに描きました。指で描いたり筆で描いたり、チューブのまま絵の具を三本も四本もしぼり出しながら、蛇がのたうちまわるように描きました。何もかもわからず、やたら滅法に描いたのでした。ゴッホのような絵を---。そして青森では、「ゴッホのムナカタ」といわれるようになっていました。
一昨年、オランダに行ったとき、ゴッホのひまわりの絵のごく側に、わたくしの板画が陳列されていました。それを想いこれを想い、ただ泪が止まりませんでした。


ストライカーの高原の話もかなり興味深い。

村上春樹についてはかなりの量をさいてる。個人的には齋藤孝はDeep親和性でもない。「午後の最後の芝生」についての議論で分った。村上春樹の根源的な部分を捉えている訳ではない。けど、この人は読み抜くことを誰よりも知ってる。だからいっぱしのDeep親和性のある人や、勘違いDeepよりもよっぽど見えてる。齋藤孝が引用する部分っての結構全面的に信頼してるな。

村上春樹のスタイル作り
文章を書くのにまったく向かないという人を別にすれば、小説を書く事自体はむしろ簡単です。それなりの筋があって、間違ったことさえやらなければ、かなり良い小説を書く事も、けっしてむずかしくない。いちばんむずかいしいのは、ずっと小説家でありつづけることですね。最近になって、つくづくそう思います。


自分のスタイルの器を大きくする
アフォリズムとデタッチメントというスタイルは、世の中に受け入れられた。村上は、一つのスタイルを作り上げ評価された。この時点でスタイル形成をやめてしまう者も多い。しかし、彼は自分のスタイルの器をより大きくしていく課題意識をもって、その後の作品に向かっていった。小説家としてやっていくためには、それだけでは足りないと感じていたのである。
具体的には、デタッチメント、アフォリズムという部分をだんだん「物語」に置き換えていった。その最初の作品が、長編『羊をめぐる冒険』であった。<中略>村上がめざしたのは、スポンテイニアス(自発的、自動的)な物語であった。

<中略>「それから自分がもう一段大きくなるためには、リアリズムの文体をこのあたりでしっかりと身につけなくてはならないと思って、『ノルウェイの森』と書いたんです」

<中略>
こうして大きく分けて二段階のスタイル形成を達成した後も、村上は何かが足りないという意識を自分で持つようになる。次のスタイル形成上の課題は、コミットメントということであった。『ねじまき鳥クロニクル』は、このスタイル形成の第三段階の転換期にあたる作品となった。初期のテーマでありスタイルであった、デタッチメントとは一見対象外なコミットメントが、ここでは関わっている。
「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃあ手をつなごう」とういうのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、僕は非常に惹かれた」と村上は言う。

1人の作家を全部読み込むという経験は思った以上の意味があった。僕がネクストレベルに拘るのは、マクナイトがSuperheroで言ってたからでもあるし、村上春樹のこのスタンスなんだよね。自分自身を伸ばしていく方向性に迷いが無い。そしてやるべき事を一つずつ達成してる。その姿にはかなり憧れるなぁ。

三ヶ月集中して書いては、ふっと抜くのね。抜いて少し時間をあけて別のことをやったりなんかして、また三ヶ月こもる。そうじゃないととても身がもたないから。でも三ヶ月集中するといっても、キモの部分はほんの二週間なんだ。大事な事はほとんどその二週間の中で決まっちゃう。その二週間に行き着くために、その前の二ヶ月半をやるわけ。これって、長距離ランニングと同じなんだよね。要するに持久力。持久力が集中力を支えて、その結果キモの部分の集中がくる。

<中略>
それはちょっと言葉では説明できないな。でもね、それがないと小説ってつまらないんだよ、ほんとうに。すっとあっちへ「行っちゃう」という感じなんだけど。よく賭け事をやる人で、次にどんな札が出てくるのかすっと分っちゃう人がいるね、それに似ているのかなぁ。そういうのってプロの物書きなら、誰だってできるんだ。例えば締め切りすぎて、もうどうしようもなくせかされて、缶詰になって、わーっと書く。そうすると「入っちゃう」んだよね。ただし、それは非常事態なわけ。そういうのは、ある程度年になるとできなくなる、と思う。

それで僕は天才じゃないから、そういうパワーみたいなのを、ひとつのシステムにしようと思ったわけ。二ヶ月半なら二ヶ月半、一生懸命こつこつとやっていれば自動的に、すっと二週間のキモが来る。−−−あるいは、すっと「入っちゃう」というシステムを自分の中に作ったわけ。そしてそういうシステムを維持するためには、フィジカルな力をつける必要がある。だから僕は、走ったりするのがそんなに苦痛にならなかったんだろうな。だって、自分にとって必要不可欠なものなんだから。


つまりね、自分のうちに深い深い竪穴があって、その底に大事な水が湧き出す泉があると仮定するわけ。小説を書くためには、その水を汲んでこなくちゃいけない。それで僕は深い深い竪穴を苦労して下りていって、また上がって、・・・・・・延々とシジフォス的にその労働が続く。でもそれはやらなくちゃいけないことなんだ。
で、さっき言った最後の二週間のキモ、「入っちゃう」というのは、それはね、もう階段を上り下りしないでもいいっていうことなんだ。いちいち下りていかなくても、すっと体がテレポートしちゃう。浮遊状態になるというか。行こうと思えばすっと行っちゃう。でもそういうスーパーナチュラルな状態になるためには、毎日毎日せっせせっせと上り下りしないといけないんだよね。それが条件なんだ。


世界の終わりとハードボイルドワンダーランドでもそうだけど、こういう頭の中に別個のシステムを作り上げてそれを活用する態度がなんか好きなんだよね。自分の専攻としてもこういうスタンスに親近感が沸く。俺もナチュラルにやってた二十歳の頃とは違うから、今後も聴き続けるには何かのシステムを作る必要がある。けど、大前提として最近、せっせせっせと聴けてないからなぁ。。やっぱり裏技なんてあっても一回ぐらいしか使えなくて、結局は愚直の積み重ねか。
つづき



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